ご報告その2_父親になります

2つ目のご報告は題名の通りで、他に何も言うことはありません!まだ初期なのでご報告すべきか迷いましたが、先生からもほぼ大丈夫と言われているため、書くことにしました。


分かったときの最初の感想は、こんな感じでした。



意外と、喜びと同じくらい、しっかりしなければという感情がありました。まだ全然実感は無いですが、生きる理由が一つ増えた気がします。


TwitterFacebookmixiでつながっている嫁さんの友達のみんな、本当は一人ひとりに電話で報告したいと思っているみたいなんですが、つわりがヒドくて連絡できずに申し訳ないと言ってます。今はすぐに返事できないかもしれませんが、時間があるときにメールでも送ってやってください。また家にも遊びにきてやってね。


人生がどーのこーの語れるほどちゃんと生きてませんが、山も谷もあるから楽しいんだと思いました。

ご報告その1_母について

自分の母親についてブログに書くなんて、考えたこともなかったですが、ご報告することがあり、振り返るにもいい時期なので、これまでの事もまとめて書くことにします。ご心配いただいている方には、本来であれば会ってご報告すべきところなのですが、ここでのご報告となり恐縮です。


はじまりは、2009年の年末でした。そのとき私は東京に住んでいて、年末年始の休みで京都の実家に帰っていました。母は、少しお腹が痛いと言って、いつもは飲むビールも飲まずに、年末年始を過ごしました。よくお腹が痛いと言う人なので、この時はまぁいつものことかと思っていました。


2010年になり、3月くらいだったと思います。父から、「母親が検査する」と連絡がありました。その時も、あまり大きなこととは思っていませんでしたが、後から聞いたところ、腹痛に耐えれずに夜中に救急で病院に行っていたそうです。私には心配かけまいと言わなかったのだと思います。


そして、2010年4月16日午前、検査結果が出たと父からメールがありました。結果は、大腸ガンでした。金曜日だったので汐留の会社にいましたが、すぐに外に行き、電話をしました。母は妙に落ち着いていて、父は慌てふためいていました。そして、肝臓への転移もあること、肝臓のガンがかなり大きかったことを、父から聞きました。


私は一人っ子なので、ここで自分が慌てるワケにいかないと思いました。病気の母と、慌てている父を支えるのは、自分しかいないと感じました。オフィスに戻り、まずは上司に話をしました。そして、とにかく冷静になろう、と自分に言い聞かせ、とりあえず普通にランチに行きました。そのとき、同じ部署の先輩に話をし、「すぐに帰れ」と言っていただいたことを覚えています。


嫁さんとも連絡をとり、急遽新幹線で京都へ帰りました。あの2時間半は本当に長く、次第に冷静に現実を受け入れ始め、なんとも言葉では言い表せない感情になり、新幹線の中で少し涙を流しました。


そして、実家へ到着しました。なぜか、母の顔を見るなり嫁さんが号泣し、嫁さんと母が抱き合って、母親が「ゴメンね、心配かけて」と言っていました。このときには、私はもう涙の一つも出ませんでした。自分がしっかりしないといけないと、母より泣きそうな顔をしている父を見て、覚悟を決めました。


そこからは、検査検査の日々で、全身の検査をしました。結局のところ、大腸ガンは肝臓の他に、肺にも転移していました。肝臓は、肝臓のうちの半分くらいがガンでした。大きいのが2つ、小さいのは無数にありました。「あまり衝撃を与えないように、破裂する可能性がある」と言われました。それに比べると、肺は1つだけ、小さいものでした。


いろいろと知り合いの方の協力もあり、2010年4月28日に、大腸の手術をすることができました。手術は成功しました。しかし、肝臓のガンは大きすぎて、先生にも「抗がん剤治療をやりながら、生きている限り付き合っていきましょう」と言われました。


このとき母は、6月のサッカーワールドカップは見れないと思ったそうです。私も、どんな本を読んで過去の事例を見ても、先生の話を聞いても、この状態ではあと半年だと覚悟しました。


ここからは、決断は早かったです。すぐに京都に帰ることを決めました。普段はいろいろ考えて物事を決めるのですが、このときは直感で決めました。一番後悔しない選択は、それしかありませんでした。連絡がきても無視するような息子だったので、親孝行をするには時間が足りなかったのです。


運よく今の会社に採用していただき、京都に帰ることになったときには、もう2ヵ月がたっていました。あと数か月、親孝行しようと思いました。と同時に、少しの望みを持って、できることはやろうと思い、体質改善のための食生活を調べ、また抗がん剤治療の副作用を調べ、有機栽培の野菜を取り寄せ、副作用を和らげる方法をしたりしてきました。


そして、2011年を迎えることができました。母は、「年賀状を出せるとは思っていなかった。喪中ハガキを用意してもらわないといけないと思っていた。」と言いました。他に持病がなく、薬が効きやすい体質の母は、劇的とまでは言えないものの、少しずつ肝臓のガンが小さくなっていました。


発覚から1年の2011年4月16日は、ささやかながらお祝いをしました。このときには、肝臓のガンは当初の半分くらいの大きさにまで小さくなっていました。


そして、2011年5月、先月ですが、肝臓のガンを手術で取り除けることが決まりました。先生も、「奇跡的」と言うほど、薬が効いてくれました。副作用はもちろんあり、髪の毛は抜け、肌は荒れて出血し、手足はしびれ、見ているだけでも辛いような日々でしたが、この6月に5時間の手術を行うことが決まり、これが成功すれば、あとは肺の小さいものだけになるので、抗がん剤も副作用が軽いものになる予定です。


いろいろとご心配いただいていた方には、本当に感謝しております。そして、ご迷惑をおかけした皆様には、本当に申し訳ないです。


まだ終わってはいませんし、一生付き合っていかないといけないことで、手術もどうなるか分かりませんが、このことで多くのことを考えました。普通に生活していることがいかに幸せなことか、限られた人生の時間をどう生きるのか、はじめてまともに考えたかもしれません。


とにかく今は手術の成功を祈って、そしてあと2つのご報告することのためにも、一日一日大切に生きていきたいと思います。


ご心配いただいている皆様への感謝を忘れずに・・・

ソーシャルメディアが伝えたもの

3月11日は、京都の会社の自席にいました。少しずつ揺れはじめ、徐々に大きくなり、ゆら〜ゆら〜と長い時間揺れました。遠くで大きな地震があったな、と分かる、振れ幅の大きい揺れ方でした。まだ揺れがおさまらない中、ネットで調べてみると、東北で大きな地震があったことが分かりました。そして、Twitterで関東方面にいる方々の情報を待ちました。いつもはある程度の間隔で誰かがツイートしているのですが、このときは時間が止まったかのように、なかなか流れてこなかったのを覚えています。しばらくして、お台場の方面で煙があがっている写真、池袋で人々が集まっている写真、オフィス近くの公園に避難している写真などが、どんどん流れてきました。ビルとビルがぶつかって煙があがっている、といったような情報もあったように思います。東京でこんな状況なら震源に近い地域はどうなっているのか、と事の大きさを実感したのは、このTwitterでの知り合いからの情報だったように思います。そして、UstreamでNHKを流している人がいることを知り、しばらくそれを見ていました。名取かどこかの、津波が家を押し流しながら進んでくる映像は入ってきましたが、日が暮れてきたこともあり、他の映像はあまりなかったように思います。自宅に帰り、夜になると、気仙沼の火災の映像が流れてきました。ただ、被害の全体像は見えず、何か新しい情報が入ってくるかもしれないと思い、テレビをつけたままベッドに入りました。そして朝方、NHKのヘリが飛び、海岸沿いの映像が入ってきました。それは映画のような現実でした。


あれから1ヵ月以上たって振り返ってみると、『整理されたマスメディアの情報』と『生のソーシャルメディアの情報』の大きく分けて2種類の情報を受け取っていたな、と思います。マスメディアはやはり信頼性が高く、特に映像という点において頼れる情報源でした。一方、一部の心無い人が混乱に乗じてデマを流したりなどの問題がありましたが、『生のソーシャルメディアの情報』からは、感情が強く伝わってきたように思います。それは既存の『整理されたマスメディアの情報』では受け取れないものでした。うまく言葉にできないですが、それぞれが自分の言葉で話しているからこそ伝わる感情という情報が、ソーシャルメディアの価値なのかもしれないと思いました。


京都では、海外からの観光客が少ないものの街はいつもどおり変わりなく、一歩外に出るとあれは夢だったのではないか、と思ってしまうほどです。そのギャップに戸惑いながら、この1ヵ月と少しを過ごしてきたように思います。自分の無力さに腹がたつこともありましたが、何かできることをと思い、本当に微力ながら、募金をしたり、情報を流したり、飲みにいったときには東北の日本酒を選んで飲んだりしました。これからもできることを継続しながら、今回伝わってきた悲しみや怒り、不安などの感情が、一日もはやく喜びや楽しみ、幸せの感情になることを祈っています。


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SONGS FOR JAPAN

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会議を効率的にする5つの方法

会議は、ビジネスマンだけではなく、学生のゼミの打ち合わせや地域住民の自治会など、様々な場面で実施されていると思います。「非効率なことから本当の価値が生まれる」というような考え方もありますが、会議においては無駄な部分を省く努力はした方がいいですよね。特にビジネスにおいては、多くの人が集まれば集まるほど、その人数分のコストが発生します。(8人で1時間の会議をすると、1人/日の工数と同じです。)できるだけ効率的に会議を行うために、私が主催者・ファシリテーターとして会議を開催する際に大事にしている5つの方法を書きたいと思います。

主催者を決める

基本的に、開催する人が主催者になると思いますが、誰が仕切るのかが明確になっていることが重要です。集まったはいいけどどうしよう、ということにならないための基本です。

目的を決める

当たり前のことですが、目的が無いと出席者も何をすればいいのか分かりません。議論する、報告する、相談する、共有する、承認を得るなど、何のための会議なのかを明確にすることが重要です。

進行を決める

たとえば、議論のための会議を開く場合、いきなり議論を開始するというようなことはあまりないと思います。「背景を説明する」「議題を提示する」「議論をする」「論点をまとめる」など、議論のための会議でも複数のパートがあります。どういう流れで会議を進行するか、事前に決めておいた方がスムーズに進行できます。

時間を決める

進行が決まったら、それぞれのパートの時間を決めます。それらの合計で、会議時間を設定します。ここまでの4項目が決まれば、事前に出席者に伝えておいた方がいいと思います。参加する側も目的が明確であれば心構えができますし、必要に応じて事前に何か準備しておくことも可能だからです。

決定事項・タスク・担当者・スケジュールをまとめる

会議中は事前に決めた進行・時間にそってファシリテーションします。そこで大事なのは、会議の最後に決定事項をまとめることと、タスク・担当者・スケジュールを決めておくことです。せっかく何かを決定しても、誰がいつやるかをハッキリしていなかったために、誰も手をつけずに時間がたってしまった、ということもあります。会議の最後にまとめるだけでなく、議事録などに明文化しておくことも重要です。


たかが人が集まって話すだけの会議ですが、工夫次第で効率的かつ効果的な運営ができると思います。1日はどう頑張っても24時間しかないので、できる限り無駄を省くために、事前の準備が重要だと思います。上記の5つは教科書通りのことだと思いますので、もっといろいろな工夫があれば、ぜひご教示いただけると幸いです。

Radiohead新作、もうすぐ発売

先日、レディオヘッドの新作が発表されましたね!その名も「The King Of Limbs」。UK時間2/19からダウンロードできるらしいですが、CDで欲しいアナログな自分は3/23まで待つ予定です。今回は、「In Rainbows」のときのような購入者が価格を決める形はとらないそうです。個人的には「KID A」が好きなんですが、どんな音になっているのか楽しみです。

In Rainbows

In Rainbows

In Rainbows

KID A

Kid a

Kid a

ソーシャルの次を考える

ソーシャルソーシャルと言われ続けて長い時間がすぎました。昨年からマスメディアにも多く取り上げられるようになり、いよいよこれから本格的なソーシャル時代がきそうですね。さて、そんな昨今、ソーシャルの次は何なのか、考えています。すでに多くの方が考え、語っていることかもしれませんが、個人的な考えを書いてみたいと思います。

ローカル

今年は位置情報サービスの年だ、というのをよく目にします。ソーシャルと位置情報が結びついて恩恵を受けるのは、ローカルビジネスでしょう。これまで全世界にプロモーションする必要がなかった中小企業や店舗オーナーも、ソーシャルと位置情報によって、本格的にインターネットを活用し効果を得ることができる時代がくるように思います。

ライフログ

こちらはひと昔流行ったワードですが、自分のことをできる限り記録することで、いろいろなレコメンドをしてくれる、そんなことが当たり前になりそうです。食べた物を記録することでカロリー計算し、その後の食べ物のレコメンドをしたり、行った場所を記録することで、同じ行動パターンの人をレコメンドしたり、さまざまな活用方法がありそうです。


このように、ソーシャルの次の時代をそろそろ考えていきたいですね。